扶桑社文庫「昭和ミステリ秘宝」から刊行された高木彬光の「初稿・刺青殺人事件」を読了した。
「生前に作者が望んでいなかった復刊はするべきではない」というような意見もあるが、容易に入手できないオリジナル版を読むことができたのは大変興味深い体験だった。代表作を改稿することは、横溝正史が読者に対する配慮という視点から批判的な発言をしていたかと思うが、読了後、記憶にある改稿版と比較することで、高木彬光がどうして「刺青殺人事件」を改稿しなければならなかったのかを思い巡らした。
杉江松恋の解説では、1953年(昭28)の「改稿・刺青殺人事件」で変わった点として、人称を変えることで過度な修飾を取り除いたこと、文章を整然と構成しなおしたこと、過去の探偵小説に対する言及を削ったことが挙げている。
このうち、改稿版から過度な装飾が除かれているのは、おどろおどろしさを廃し、文章を整理する作業の一環とも理解することができる。しかし、過去の名作探偵小説に対する言及は、先に挙げた解説では、江戸川乱歩がこの作品を評価した要因のひとつであるとして指摘されていながら、改稿版で削られているのはなぜだろう。その理由が気になった。初稿版が上梓されたのが、1948年(昭23)。改稿版が1953年(昭28)。5年のあいだに、高木彬光の文章力が向上したほかになにが起こったのか。「初稿・刺青殺人事件」が出版された翌年の1949年(昭24)、高木彬光は「宝石」に第二長編「能面殺人事件」を掲載している。この作品は第三回探偵作家クラブ賞を受賞しているが、クリスティの著名作品の犯人を明かしていることでも有名である。悪意のネタバレではなく、「初稿・刺青殺人事件」でみられた過去の名作に対するオマージュがさらに極端に発露したのだと理解したい。同様のネタバレは1946年(昭21)に「新青年」に掲載された角田喜久雄の「Yの悲劇」にもみられるし、戦前にもあった。過去の名作に対する言及は、同じ年に「宝石」に発表された横溝正史の「本陣殺人事件」にも現れている。「本陣殺人事件」を書くときには、過去の名作に触れることが嬉しくてたまらなかったというようなことも横溝正史がいっており、探偵小説が抑圧されていた時代から開放された当時の流行だったのかもしれない。「宝石」が十万部売れたといえども、基本的には探偵小説の愛読者が極度に限定されており、また、読むべき作品もそれほど多くなかった時代の内輪受け的お遊びだったのだろう。
だが、フォルスターが翻訳権に関する仲介業務を始めた1949年(昭24)末頃から日本でも海外作品の翻訳が手軽に入手できるようになった。新樹社のぶらっく叢書や「別冊宝石」により、翻訳探偵小説の時代が幕を開け、その傾向は1953年(昭28)に創刊されたハヤカワポケットミステリによって加速され、翻訳探偵小説愛読者層の創出というかたちで影響を及ぼす。また、同じく1953年(昭28)には、ある意味で過去の名作の総決算である江戸川乱歩の「類別トリック集成」が「宝石」に掲載された。それを契機として、過去の名作を中途半端に作中で引き合いに出すことが魅力になるという流行が過ぎ去り、かえって古めかしく感じられたのではないだろうか。類別トリック集成の成果をこれでもかと盛り込んだ江戸川乱歩の「化人幻戯」は1955年(昭30)の発表であり、素晴らしい研究の成果でも、作中で読むと当時では古い感じはしたことだろう。
そうした空気は、「刺青殺人事件」の改稿作業に影響を及ぼしたに違いない。
「本陣殺人事件」「高木家の惨劇」と並ぶ名声を得、高木彬光に多額の印税をもたらした「刺青殺人事件」が、たかだか五年で古びていく。また、文章力が向上するにつれ、江戸川乱歩に指摘された小説としての未熟さがますます気になっていく。改稿は五年のあいだに培った文章力を武器に、「刺青殺人事件」に永遠の生命を吹き込もうという作業だったのではないか。
幻想性よりもリアリズム性を強く打ち出した鮎川哲也の「黒いトランク」や松本清張の「点と線」が登場するのはまだ数年を待たなければならなかったが、おどろおどろしさを取り除いた改稿版を読むと、この時代、日本が戦争の痛手から急速に回復していたのだと痛感する。